2007/02/09

大国崛起 日本語訳
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http://finance.cctv.com/special/C16860/01/index.shtml
http://ent.sina.com.cn/f/cctvdgjq/index.shtml


1889年2月11日,東京都は一面の大雪となった。伊藤博文が起草した「大日本帝国憲法」が発布,施行された。「帝国憲法」は,明治維新の新成果を固めるとともに,日本の伝統の中にある天皇崇拝の力を借りて,法律の形式を以って,天皇が神聖不可侵であること,軍隊の統帥権を擁すること,対外宣戦をすること等の一切の大権を擁することを確認した。「帝国憲法」は,日本を,政治面では表面上の多党制をおこなうものとしたが,実際には天皇制であった。このため,日本は,その勃興初期の時点から,対外拡張と対内高圧的な軍国主義に走ることが運命付けられていたのである。ある歴史学者は,伊藤博文の執政時期は,相撲のような民族伝統が復古すると同時に,日本伝統文化における「カス部分」,特に軍国主義もまた召還され,かつ強化されたと考えている。しかし,当時,伊藤博文はこれを以って,日々先鋭化する社会矛盾を解消しようとしたのである。

憲法発布後,日本経済は迅速に発展した。極端な西洋化は段々と抑制され,日本の社会生活において,次のような情景が出現した。洋服が流行するとともに,和服が最もきらびやかな礼服として残された。酒場が次々と出現するが,茶室は依然として人々の精神の聖地であった。西洋オペラが開演される一方,能や歌舞伎も盛況を博した。油絵が見られるようになるとともに,日本の浮世絵も世界の絵画における一大流派となった。

中国日本史学会会長 汤重南
「日本文化は,玉ねぎ文化のようなものだ。このような形容によって,我々は,日本文化の一種の状況を非常に明確に見ることができる。玉ねぎと同じだ。一片一片と剥がしていき最後に日本文化の核を探そうとしても,何もない。なぜか。一片一片の中に全て,外来文化の影響と日本文化の重要成分が含まれていて,結合,融合しているからだ。」

同時に,日本はドイツのように,自由主義経済とは異なった発展モデルを採用した。歴史家達は,統制主義経済モデルと称している。すなわち,資本主義の基本的性質を残すという前提を置きつつも,経済の運行方法を改変,国家が主導したのである。このため,工業化は常軌を逸した速度で進んだ。1910年の時点で,日本男性の95%,女性の90%が教育を受けるようになった。日本と英国との鉄道路線長の格差は,明治維新初期の1千倍から,4倍にまで縮小した。日本は外面上,既に工業国となっていた。

しかし,西洋の工業強国と比較では,日本には未だ相当の格差があることは明らかであった。如何にして,最も速い方法で追いつき追い越すのか,日本は常にこのような近道を捜し求めていた。

明治政府が成立してまだ5年の頃,日本は武力を用いて,隣国の朝鮮に圧力をかけて開国させて,そこから利益を得た。この時間的間隔は,日本が米国から開国させられてから,20年にも満たない期間である。

日本文明歴史家 加藤周一
「明治のスローガンは,あのお…富国強兵だったわけですが,明治政府がやったことの一つはね,一番早くやったことの一つは,近代的軍隊を作ることと,…それはある意味で目的でしょう? 」(発言音声version)

「明治のスローガンは富国強兵である。明治政府成立後,最初におこなったことは,正に現代的軍隊を設立したことだ。これは明治維新の目標だ。」(中国語字幕version)

19世紀末,日本の著名思想家,福沢諭吉は,単刀直入に日本のため,次のような手っ取り近道を指し示した。

「わが国は躊躇してはいけない。隣国と共同で東亜の復興を待つために隣国の進歩を座して待つよりは,むしろ,その列を抜け出て,西洋文明各国と共に歩むべきである。」

このいわゆる「西洋文明各国」は当時,世界中で勢力範囲をしのぎあっていた。歴史上,常に強者と仲間になることを選んできた日本人は,このとき,西洋列強と進退を共にすることを選択して,武力略奪の行列に加わったのだ。明治維新が国力増加をもたらしたとき,日本軍国主義は対外拡張へと足を進めた。

中国社会科学院日本研究所所長 蒋力峰
「明治維新ね。それは,1889年を語らねばならない。1890年前後,維新段階は既に終了していた。その後は,その全ての国家戦略は変化してしまった。どのように改変されたのか。もともとは,改革を通じて発展を促すというものだったが,1890年以後は変わってしまった。戦争を通じて発展を促進するようになった。」

中日甲午戦争(1894年)。
日露戦争(1904年)。
第一次世界大戦(1914年)。

毎年続く対外侵略。日本は朝鮮を占領し,中国のものである台湾を占領した。大量の資源と賠償金が日本の国内に流入した。甲午戦争の後だけで,日本が中国から掠め取った賠償金額は,当時の日本の国家財政収入の4倍余りに相当した。賠償金額の半分以上は,海軍と陸軍の軍備拡充に用いられた。何度かの勝利の後,日本軍国主義の野心は益々膨張して来た。ついには,大東亜共栄圏の建設,太平洋の制覇,インド洋の制覇に向けて発展した。半世紀余りの長き歳月,日本拡張勢力の戦争は,一つ一つと行われていった。

1931年。9・18事変。日本軍中国東北を占領
1937年。7・7事変。日本軍が盧溝橋事変を挑戦的に発生させる
1941年12月8日。真珠湾。太平洋戦争が勃発。
1945年8月。米軍が日本広島と長崎で原子爆弾を投下。

原子爆弾のキノコ雲が空に上ったその時,日本軍国主義が武力をもって企んだ世界制覇の妄想は灰燼に帰した。これまでの歴史上,武力を持って覇を唱えようとした全ての迷信国家と同様,侵略戦争は,他国に災難をもたらすと同時に,日本にも壊滅的な打撃をあたえてやったのだ。明治維新から始まり,80年間に渉って蓄積した物資的成果は,戦火の中で,ほとんど灰燼と化したのだ。

1945年8月15日。天皇は,日本国民に対して敗戦を告げた。
1945年9月2日。日本は,米国戦艦ミズリーにて投降書に署名した。

戦後の最初の数年間,占領国米国は,日本に対して,毎日百万ドルもの援助を提供し,毎日6千トンの米を運ばねばならず,それで,やっと餓死者をなるべく少なくするよう保証した。

しかしながら,誰も予測できなかったことに,このように見るからに全てが廃墟の状態で,日本は,わずか20年余りの時間で経済勃興を実現してしまった。1955年から1964年の間,日本の国民総生産の年増加率は,常に9%以上を保ち続けた。1965年から1970年の間は,この増加率は,10%を更に超えてしまった。この奇跡的な速度に対して人々は様々な解説をする。だが,いかなる角度から分析するにしても,その中の根本的な原因を無視することはできまい。

中国社会科学院日本研究所研究員 金熙德
「日本は敗戦後,廃墟となった。しかし,日本には,やはり明治維新以来,百年間発展してきた基礎が残っていた。科学,技術,人の才能等のほか,西洋から学んだ工業化というもの。よって,日本は物質面で崩れ去ったが,今話したようなソフトパワーが,未だ残留していて,日本が戦後に素早くかつ著しい経済復興をする基礎となったのだ。」

と同時に,戦後の日本は「和平憲法」の護衛を得た。1947年5月から施行された新憲法は,次のように規定した。

「日本の主権は国民に属し,天皇は日本国民の象徴存在に過ぎない。日本は永遠に国家主権の発動たる戦争を放棄する。陸軍,海軍,空軍やその他の戦争能力を保持しない。国家の交戦権を否定する。」

この「和平憲法」の枠組みの下,明治維新が打ち立てた基礎が作用を発揮しはじめた。

これは嘗ての日本の最初の列車駅である。1872年,日本の最初の鉄道は,英国人が作った。明治天皇は自らやって来て,開通式典に参加した。7年後,日本人は自分で鉄道の設計と修理をするようになった。1964年,世界で最初の高速鉄道が,日本の東京と大阪間に出現した。その運行速度は,通常の鉄道の3倍である。日本人はこれを「新幹線」と呼んだ。新幹線と一緒に伸びたものは他にも存在する。戦争後に欧米の企業制度を参考にして成長し,その触覚を世界中に延ばす多国籍企業だ。これら多国籍企業こそが,日本をして,高速発展軌道に乗せたものである。新幹線が誕生した4年後の1968年,日本の国民総生産は,1419億ドルに達した。この年,日本は米国とソ連に続く世界の第三番目の経済強国となった。この年は,正に,明治維新の百周年にあたる。如何なる角度から語るにしても,自身に満ち溢れた日本民衆が,この時点こそ,日本が再び勃興したと宣告するべき最も象徴的意義のある時点であると考えるのも無理はない。

日本の百年にわたる大国への道については,確かに,多くのことが総括されなければならない。しかし,如何に総括するにせよ,ある一点は疑いの余地はない。今日の世界,いかなる国家の勃興も,賞賛されるべき意義は,対内的には自らの人民に幸福を与え,対外的には世界に対し和平と安全な福祉を与えることのみにある。

(以上,46分。後編)