2007/02/07



This is one of a famous TV program in China these day. The title is The rise of Great Power "大国崛起".




This program do introduce some aspects of the history about the 9 nations including Portugal, Spain, Holland, United Kingdom, France, Germany, Japan, Russia and USA, each of which has significant effect on the modern history of the World.

The 7th series is on Japan. So below is written in Japanese to introduce the content.
大国崛起 日本語訳

------------(イントロ部分)---------------------
500年前、世界的な大国が歴史の舞台に登場した。
15~16世紀 ポルトガル、スペイン 地理大発見
17世紀 オランダ 資本の力
1688 イギリス 栄光革命、工業時代到来
1789 フランス 大革命
1871 ドイツ 統一
1871 日本 岩倉使節団欧米へ派遣
ロシア皇帝改革 強国の路へ
米国誕生 世界一になる

500年 9の世界大国 その風雲と激動

-------------「大国崛起」---------------------(タイトル画面1)

約150年前、太平洋の西側の位置する島国日本は、西方殖民による圧力のもと、圧倒的な生存の危機に遭遇した。驚いたことに、日本はその機会をもって、自己の古い部分を捨てて新しくなり、真正面から歴史のチャンスに追いつこうとした。また、ついには自らを東方世界における初めての西洋大国からの蹂躙から逃れた国として、順当に現代国家を実現した。そして、東方で唯一、帝国列強の一員となり、侵略拡張を頼みとして、国外に植民地を建設したアジア国家となった。
今日、この面積にして、たったの27万平方メートルしかない島国は、依然として世界第二の経済強国である。自らの命運を渇望するところから、世界の主役へとなるところまで、一体何がこの島国を導いて、波間に漂う命運の如きものにしたのか。


-------------第7集 百年維新-----------------(タイトル画面2)
歴史の大きな変動は、往々にして、気にもかけられない場所から起こる。拭い難い記録は、横須賀、東京湾に位置するこの場所から…、日本の近代史は、ここから開始した。
2003年、山と水の近くに位置する静やかな小さな都市で、盛大なる記念行事が開催された。記念対象となったのは、ペリーと名乗る米国将軍であった。この人々の笑顔からは想像しがたいことだが、150年前、まさにこのペリー将軍は、武力をもって日本に迫り、国の扉を開けさせたのである。この島国をして、悲劇と奇跡に満ちた、屈服と頑強の混ざり合った歴史への路へと駆り立てたのである。
1853年7月8日、強国の一員となったばかりの米国は、東インド艦隊司令官ペリーを、4艘の全面武装した黒大船を統率させて派遣、横須賀港へ押し入った。太平洋航路を開くため、また、東方市場を独占するため、ペリーは米国大統領を代表して、開港と通商の要求をおこなった。少し前に米国とメキシコ間の海戦において大勝利を収めたこの将軍は自負心に満ちていた。彼は、交渉のために目の前にやってきた日本の使者に対してこう言った。

「お前たち、抵抗しない方がよい。なぜならば、一旦戦争になれば、結論はひとつしかない。米国が必ず勝つ。」

黒い煙の蒸気船隊とやる気満々の米国将軍に遭遇して、日本人はどのような選択をしたのか。このときの日本は既に2百年の鎖国の時間を過ごしていた。しかし、日本は外界に対して何も知らなかったわけではない。唯一の窓口である長崎では、当時の世界における2つの最も豊かな国家、中国とオランダが通商を許されていた。17世紀の世界覇者オランダは、この2千年にわたって中国を師匠として一途にやってきた島国に対して、蘭学に興味を起こさせた。日本の武士階級は、次から次へと、オランダ語を用いて、欧州近代の天文、地理、医学等の新しい学科を勉強した。また、これにより西方世界の発展を知った。当時、13年前にアヘン戦争において、英国軍隊の攻撃を受けた隣国である大清帝国の状況は、また異なった角度から、日本の統治者に対して、新しい信号を与えることとなった。


日本文明歴史家 加藤周一
「何千年も、だいたい、日本は中国に従って…従って、というか、中国から学んで、やってきたわけでしょう?。中国が戦って敗れるような相手が出現したということは、非常な…SHOCK!…というか…衝撃だったと思うんですね。(発言音声そのままversion)」

「何千年も日本はほとんど中国から学んだ。中国ですら負ける相手…このような相手は非常に強大に違いない。このような相手の出現は、日本からすると一つの衝撃であった。(中国語字幕から翻訳version)」

このため、米国黒船に圧倒されたとき、日本国内において開国か戦争すべきかの選択に関して論議がなされたが、最後には実際的考慮をおこなった。日本人は、ほとんど歓迎の態度でペリーの要求を受け入れた。ペリー将軍は武力を見せるほか、電報機、時計、望遠鏡、蒸気汽車、大砲を、日本人に対して工業革命の成果として見せた。小さな蒸気汽車が特別に設置された軌道上を走行を開始するのを見たとき、取り巻いてみていた日本の役人は、飛ぶように動く車輪の中に、自分と大洋の彼方にある世界との距離を痛感した。

早稲田大学名誉教授 依田真家
「開国ということに、かなり積極的なんです。それで、むしろ、現在の状況においては日本が一つだけでは成り立っていけない、むしろ、国際的な…あのお…あのお…世界に入っていかなきゃいけない。そして、その中で日本を世界の強国にしなきゃいけない。こういう考え方ね、既に幕府の中にあるんですね。(発言音声そのままversion)」

「当時、幕府は開国に対し、むしろ相当積極的だった。彼らは、このように考えた。すなわち、日本は、当時の世界状況に対応すべきであり、もし自閉鎖国をしていれば発展は獲得できない、必ず国際社会に入ってその中から発展し世界強国とならねばならないと。(中国語字幕から翻訳version)」

ある日の夜、二人の日本青年が、こそこそと米国黒船に這い上がり、身振り手振りで、ペリー将軍に対して、
「一緒に米国に行きたい。米国が一体なにゆえに強大なのか見てみたい。」
と告げた。このような行動は、同時の日本においては、法に従い、打ち首となるものであった。彼らの行動は、ペリーを非常に驚かせた。ペリーは、日記に次のように記している。

「この2名の日本人の向学精神に、私は感動した。もし、日本人が全員、彼らと同じだとしたら、日本は必ずや米国と同じような強大に変貌するだろう。」

この世界を知りたいと渇望する青年は、結局、やはり船から降ろされた。しかし、国を開くに伴って、ますます多くの日本人が外界世界に関心をいだくようになった。14年後、渋沢栄一という名の若者が、欧州行きの機会を獲得した。1867年、27歳の渋沢栄一は、日本代表団の一員となりフランスへ到着、パリ万国博覧会へ参加した。新奇な工業産品が、手工業機械設備に取って代わっている。西洋の工業水準は、渋沢栄一に大きな驚きを与えた。彼は、その地に留まることにして、仔細に欧州各国の発展と経済制度を見て回った。

中国社会科学院世界経済政治研究所研究員 周見
「渋沢栄一は最初にフランスに到着し、その後ベルギーへたどり着いた。ベルギーの国王は接見の際にこのように語った。『国家の発展は、工業と切り離せない。特に鉄鋼の使用が非常に重要である。』日本が遣って来たときに、『鉄鋼を買うか?、ベルギーの鉄鋼を使ってみるか?』と尋ねた。渋沢栄一は大変驚いた。彼は、『一国の国王が外国の客人と会見する際に、自国の産品を売り込むことをも忘れない。工業商業が西洋国家にとって如何に重要なのか見て取れる。』と言った。」

小さい頃から、「四書」「五経」を熟読してきた渋沢栄一は、儒教文化の影響を深く受けていた当時の全ての伝統的日本人と同じで、商人は利益のために絵を描くものであるとみなしていた。ベルギー国王の話は、彼が固持していた、この観念を段々と変えていった。1866年11月、渋沢栄一は全ての新しい思想を携えて、日本に戻っていった。

この時の日本は、既に、彼が離れた時の国家ではなくなっていた。国家は、重大な歴史の転換点を迎えていた。この年、日本の歴史上、第124代天皇、明治天皇が再び国家権力の中心へと戻っていた。

中国清華大学歴史部副教授 劉暁峰
「日本の神話においては、天照大神が日本を創造したとされている。天皇は、天照大神の嫡出子孫と称している。よって、天皇は日本を統治する法的根拠を有している。しかし、実際の歴史上は、12世紀から大権は一貫して、傍らの即ち、武力を有した幕府の手中に落ちていた。このような状況は一貫して6百年続いた。1868年、即ち黒船が日本の国の扉を敲き開けた後15年後まで、ずっと続いた。」

米国黒船の圧迫的な傲慢さと強勢は、幕府の軟弱と無能を浮かび上がらせた。外部からの圧力は、とうとう、内部変革の動力へと変わった。最終的には、武士たちは、王政復古を名義として幕府を覆し、即位したばかりの明治天皇を擁立、合法的新政府を樹立した。14歳の明治天皇は、日本国の最高領袖となった。若い天皇が率いるのは、内憂外患、四方を危機に囲まれた日本であった。米国黒船は、日本の国の扉を敲き開けた後、日本を脅迫して、歴史上最初の不平等条約を結ばせた。この後まもなく、オランダ、ロシア、英国、フランスが、蜂のように押しかけ、次々とむらがり、この島国において各国の利益争奪戦を開始した。当時の多くのアジア国家と同様、開港後の日本は、西洋商品の販売市場と低廉な原料供給地と変化した。開国後たった半年で、日本の黄金は百満両が流出した。国内経済は落ち込み、民衆の恨みが四方で起こった。若き新政府は、如何にして、日本を亡国瀕死の苦境から、導き助け出したのだろうか。

1868年4月15日、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布。これは国家変革を推進し、旧法を改め強大となるための要綱であった。この時から、日本は、明治維新と呼ばれる時代へと変わって行った。

早稲田大学名誉教授 依田真家
「これは…明治維新が…あのお…日本の近代化の出発点となった。」

1866年11月、帰国した渋沢栄一は、良いときに間に合った。1年後、彼は明治政府の財部部門に任官した。欧州遊学で蓄積した経験と天性の能力でもって、渋沢栄一は、一路順風の道を歩んだ。彼は、新政府の貨幣制度改革、廃藩置県、公債発行に直接参加、ほとんど全ての重大政策の調整と制定に関与した。政策面で腕を見せた渋沢栄一は次々と昇進していくが、明治政府のある重要政策が、日本と渋沢栄一個人の命運を変えることとなった。

1871年、百名近くの政府使節団が横浜港から出発、欧州米国各国へと向かった。使節団は、49名の明治高官を含んでいた。この数字は、当時の政府官僚総数のほぼ半数だった。この大規模旅団のため、成立後まだ3年の明治政府は、年財産収入の2%を支出した。1年と10ヶ月の間、彼らは欧米12カ国を視察し、百巻に及ぶ長大な視察実録を記した。政府の投入の大規模性、官僚等級の高級性、訪問時間も長大性。日本やアジア国家と、西洋世界との交流歴史上、岩倉使節団の出訪は、前代未聞の行動と言える。

中国日本史学会会長 湯重南
「日本の最高指導者階級は、岩倉を頭とする欧米訪問をした代表団だ。最初に驚き、次に陶酔し、最後には狂った。この3つの言葉で概括できる。私は非常にこれは正確だと思う。『最初に驚く』とは、彼らが欧米に到着して西洋の発達した文物、制度を見た後の驚きの程度のことだ。『次に陶酔』とは、西洋のこの種の先進的物質、精神文明の中でということだ。『最後に狂う』とは、西洋の文物制度を狂ったように学習することを最終的に決心したということだ。日本を西洋と同じようにしようということだ。」

まさにドイツにおいて、日本使節団は自国の発展モデルを探し当てた。国家統一を最近なしとげた鉄血宰相ビスマルクは、招待宴会の席上、彼らにこう言った。

「今の世界各国は、皆、礼儀をもって交わると言っているけれども、それは表面上のことである。背後では、実際には、大が小を欺き、強きが弱きを陵辱している。」
この話は日本人を納得させた。彼らはビスマルクの強権政治の説明に賛同しただけでなく、同時にドイツ式の発展モデルに陶酔した。すなわち、国家主導で工業発展を図るということだった。ドイツは当時の欧州において、最も動きの速い後発国家だった。

数千年にわたって、ずっと、強者から学んできた日本人は、自分のための新しい先生を見つけたのだった。

帰国後、日本工業化促進を主導したのは、まさに岩倉使節団の副団長であり、自らを東洋のビスマルクと称した大久保利通であった。百年余り後の今日、大久保家の家族は依然として当時大久保利通が訪問の際にパリから持ち帰ってきた西洋式の赤皮イスを愛蔵している。彼が使用した硯や愛用していた中国の紫砂ポットもある。この小さな印鑑は、当時、大久保利通が肌身離さず持ち歩いていたものである。日本の歴史に多くの影響を与えた政令は、全て、この印鑑が押されて公布された。

帰国後、大久保利通は参議兼内務卿へと昇進、この明治政府の大権を実際に掌握していた鉄腕人物は、日本をして、待ちきれぬ現代化への強行軍を開始させたのだった。

(以上、前編。18分53秒)