2007/02/08

大国崛起 日本語訳
Again, introducing the TV program named 大国崛起.

製糸場は,日本が最も早く建設した官立工場のひとつである。政府はフランスから購入した製糸設備を設置したほか,高給でフランス技師を採用した。工場はすぐ開業しようとしていたが,工員が採用できなかった。というのも,当時の多くの日本人は皆,あのガタガタ煩い機械は人間の精髄を吸い取ってしまうと考えていたからである。民間の恐れを打ち消すため,明治政府は一つの方法を思いついた。まず高給士族の娘たちを説得して,女工とした。その後,これらの技術に習熟した女工は全国各地に派遣された。製糸は,日本が最も早く国際市場に投入した産品となった。

日本文明史学科 加藤周一
「イスラームの世界でも,それらから中国でもそうだと思うけど,あの抵抗が強いですよね。外国の技術を入れることに。帝国大学…国立大学は,明治維新のときに作ったのは,多くの領域では全く西洋式に切り替えちゃったんですね。それで,それは,あの良い点というのは,その方が能率的。だから早く国際的水準に達するには,その,中途半端に混ぜないでね,もう徹底的に初めからゼロから,もうしちゃうの。西洋式にやった方が速いということが,能率がいいっていうことが。また,実際に能率がよかったわけ。」(発言音声version)

「私はこのように考える。イスラム国家や中国では,皆ひとつの特徴がある。外国の技術を導入することへの抵抗が強い。明治維新のとき,日本帝国大学国立大学の多くの学科や多くの領域は,短時間で全て西洋化した。この積極的側面は効率が高いことだ。国際先進水準にすばやく達するためには,全てをゼロから初めて,完全に西洋化を実行することだ。実際にも,このようにすることで効率が高いことが確かに証明された。」(中国語字幕version)

大久保利通の殖産興業計画に従い,政府は西洋から直接,フランス式製糸場,ドイツ式鉱山精錬工場,英国式軍工場を持ってきた。機械を購入するだけでなく,政府はまた大量の外国技師を採用した。当時の外国籍専門家一人の月給は,最高で2千円に達した。これは,明治政府の高官給与の3倍以上であった。これに基づいて計算すると,当時の明治政府の財政支出の5分の1は,企業の設立に投入されたことになる。

国営工場を設立すると同時に,大久保利通は民間企業をも一生懸命扶助した。三菱は日本の最も著名なマークのひとつである。今日の日本には,百以上の三菱企業があり,海外には数百もの三菱支店がある。しかし,1870年の時点では,三菱はまだ三艘の船を擁する小さな無名の会社でしかなかった。三菱はすばやく明治政府の委託経営にかかる13艘の輪転船と海外軍事輸送業務を獲得した。1年後,政府は,この13層の輪転船を三菱に与え,毎年経費を補填してやった。また,この後政府は,郵政公社の18艘の輪転船を購入して,無償で三菱に与え,商売をさせた。

日本三菱経済研究所常務理事 成田誠一
「日本政府としては,これらの事業を民間に払い下げていくわけですけども…最初は政府でやるんですが,それを育った民間にどんどん払い下げていくというやり方で,日本は発展していったわけです。その過程で,三菱だけじゃ無くて,三井,住友も皆,政府から事業を買い上げて,それで発展させていくわけですけども…」(発言音声version)

「日本政府はこれらの事業を民間企業に移譲して発展させた。すなわち,最初は政府が実施し,その後に売却し,だんだんと育って成熟した民間企業が継続発展させた。日本はずっとこの方式をとって発展した。この過程で,三菱のみならず三井,住友等の会社はみな政府から官業企業を買い取り,承継させることで発展した。」(中国語字幕version)

政府の庇護の下,三菱は素早く,翼を得て肥え太った。1875年,大久保利通は成立5年の三菱会社に対して,日本から上海への航路を開くよう要求した。その結果,1年にも満たぬまに,米国太平洋郵船会社,英国の半島東方航海会社は,この航路から駆逐された。三菱会社は単独で日本と上海間の海運業務を独占した。

1873年,33歳の渋沢栄一は既に国家予算担当の大蔵少舗となっていた。多くの人の目には,彼の今後は,錦に飾られたも同然と映っていた。ところが,渋沢栄一は,むしろ,当時としては不可思議にも見えることを実行した。彼は辞表を提出し,官を棄て,商売に従事したのだ。

中国清華大学歴史部副教授 刘烧峰
「明治維新前の日本では,商人の地位は実際上あまり高くなかった。渋沢栄一,彼は官を棄てて商売に従事したが,これは時代を先取りするに等しいものだった。すなわち,商売をすることが実はとても地位のあることで,地位ある人物も商売をして良いのだと,皆に一気に認識させたのだ。」

官をやめた後,渋沢栄一がおこなった最初のことは,日本の最初の株式制の銀行の設立準備だった。また,これに依拠して,彼は,伝記的色彩を帯びた企業家としての生涯を開始した。彼の企業組織活動はだんだんと,海運,造船,鉄道,紡績,ビール,化学肥料,鉱山等の部門の全面展開へと向かった。19世紀の80年代に至り,渋沢栄一は日本工業商業界で最も人目を引く人物となった。

工業化へと素早く邁進する日本は,先進技術を学ぶと同時に,西洋式生活方式を模倣することを開始した。新暦が旧暦に取って代わった。元旦が旧正月(春節)に取って代わった。天皇は牛肉を率先して食べ始めた。官僚たちは,燕尾服を着るようになった。散髪屋の仕事は忙しくなった。男たちは髷を切り落とし,西洋式の短髪にした。ある諧謔の詩は,このように形容している。

「散切頭をたたいて見れば,文明開化の音がする」

一千年以上も前,中国の唐朝廷の都長安を模倣して建造した奈良と同様,当時の日本人はまたしても東京の銀座に西洋化された町を建設した。ここには欧米の都市を模倣した2階建てのレンガ建物を建設しはじめた。街道には電車が走り,夜となるとガス灯が点灯した。日本は見るからに面目を一新した。明治維新は,ほとんど十分順調に進展しているかにみえた。しかし,正にこの時,意外な事件が発生した。

静かで荒涼としている東京清水谷。1878年5月14日朝8時,明治政府の実権を握っていた大久保利通はいつもと同じように門を出て,御前会議に出向こうとしていた。数分後,ある知らせが宮中に届いた。

「大久保利通,49歳,東京清水谷にて刺殺さる。」

その日の明け方,久保利通は,ある地方県令の訪問を受けて日本の未来改革について語り合っていた。ならば,一体いかなる力が,大久保利通のこの変革主導権を終結させてしまったのか。なぜ,明治維新が進行して11年経過したこの時点で,突然,社会全体に,巨大な感嘆符が投げつけられたのか。

日本東京都立大学名誉教授 升味準之輔
「意思が非常につよいね。それで,こう,いつも毅然としているから,妥協しないんだ。」(発言音声version)

「大久保利通は,意思が非常に強い人間で,いつも毅然たる態度をとっていて,妥協しない人物だった。」(中国語字幕version)

中国日本史学会会長 汤重南
「全国の大久保利通に対する反対は,やはり相当の力があった。特に,最終的に大久保利通を士族が刺し殺してから以降は,政権はあっというまに過去のものとなった。」

富国強兵,殖産興業,文明開化の三大維新目標を実現するため,強硬な大久保利通は,シンプルな“持ってくる主義”で改革を進めることを採用した。しかし,政府は工業発展面で経験を欠いているばかりか,事を急激に進めようとしたので,政府の財政困難を招いた。また文明開化の過程で,度を越した行動が日本の伝統文化を崩壊の危機にさらしていた。ある者は,日本人は英語を話すようにして,西洋人と結婚して,日本種族を改良すべきとすら主張した。これらのすべては,不可避的に現代文明と土着伝統文化との激烈な衝突を引き起こした。と同時に,改革がもたらした不公平は,もともと存在していた社会矛盾を更に激化させた。

1881年,政府は投資額の30分の1にも満たぬ廉価で,北海道の官業工場を個人に売却した。この事件は,民衆をして官商癒着の腐敗に不満を抱かせ,暴動の恐れが出たため,天皇が出てきて,ひとりの高官を首にすることで,事態悪化をやっと防ぐこととなった。

大久保利通が刺殺の目にあってから後,改革の難題を引き継いだのは,大久保利通の助手として力を尽くしてきた伊藤博文であった。伊藤博文は如何にして,面前の社会矛盾に対したのか,如何なる方法を選択して,明治維新の事業を継続したのか。

日本東京都立大学名誉教授 升味準之輔
「伊藤はおそらく…たくさん指導者がいて,その中でどれとは言わないが,まあ一番スケールが大きいというか,なんかこう,広い,広ーい,なんて言うかな,オープンな性格の人だよ。」(発言音声version)

「伊藤博文は,多くの日本指導者の中で,思想が最も大きく,視野が広く,開放的性格の人物と,概ねいえる。」(中国語字幕version)

伊藤博文は,担当者となって間もなく,手に余る事件に遭遇した。明治政府は,かつて,日本の伝統スポーツである相撲を明確に禁止していた。理由は,ほとんど裸の相撲取りは,見苦しく蒙昧であるというものだった。ところが,ある有名な高砂という相撲取りが,政府の禁令に挑戦をはじめた。東京において公開相撲試合を開催しようとしたのだ。高砂を支持する民衆と,邪魔をするためやってきた警察とが,双方にらみ合いとなった。事態の悪化を避けるため,天皇は仕方なく,自ら相撲大会を主催して出席し,このスポーツを復活させた。

相撲取りの挑戦と民衆の不満は,伊藤博文をして,国家の発展方向と改革方式について,仔細な考慮をせざるを得なくさせた。伊藤博文が執政をしていた日本では,改革により引き起こされた矛盾が,既に社会生活の中で突出しはじめていた。西洋の風が東洋に入る中で,世界を見ていた日本大衆は自分の権利を主張しはじめた。大規模かつ継続的な自由民権運動が日本社会の各階層で展開していた。

日本早稲田大学名誉教授 依田喜家
「まず第一に,自由民権運動からの要求,これが中心ですね。あのーその点でですね,自由民権運動が非常に激化した結果ですね,,あのー明治政府でもですね,憲法と国会を作らなければならないと,作らなければ自分たちが打倒されてしまうという,ね…」(発言音声version)

「最初に自由民権運動を中心として,政府に対して憲法制定要求が提出された。正に自由民権運動が激化したため,明治政府は,憲法制定と国会設立が必要だと意識するに至った。さもなくば,政府自体が転覆される可能性があった。」(中国語字幕version)

大勢に順応することに慣れていた伊藤博文が認識したのは,日本国が憲法を作ることは既に大勢であるということだった。彼は日本の初めての憲法起草を開始した。十年以上の改革経験から,彼は,シンプルな“持ってくる主義”では,最早,日本社会を更に一歩変革するための動力とならないということを悟っていた。

このとき,伊藤博文の友人である渋沢栄一は,既に自分の商業王国の中で,自国の伝統と現代文明との融合を実践していた。一生で5百以上もの企業を創業した渋沢栄一は,日本の現代企業の父と称されている。その身を実業に投じたその日から,彼は中国の儒教経典である「論語」を自分の行動指南としていた。彼はあちこちで,このように説いて回った。

「日本人は,論語を片手に,算盤を片手にもった企業家たるべきだ。」

渋沢栄一が提起した企業理念は,伊藤博文が,憲法の中に自国の伝統として結実させるに至った。したがって,理解に苦しむ現象が出現した。もともと民権を保護するために確かに書かれた民権憲法の中に,伊藤博文は,天皇絶対権力条項を加えたのだ。これは何故なのか。

日本東京大学名誉教授 奥平康弘
「何故か知らんけども,その天皇制という機軸を…これは一種の宗教みたいなもんです。宗教みたいなものをなくしたら,日本は日本でなくなるという考え方を持つ人が圧倒的にいたわけですよ。これが一方では日本の近代化を進める人たちでさえも,そうであった。だから伊藤博文だって,そういうことを利用していくほかないね,という考え方を当然持ってるわけですね。」(発言音声version)

「原因は不明だが,天皇を中心とする思想をもって,宗教に近似させた。絶対多数の日本人はこう考えた。もしこの宗教がなくなったら,日本は日本でなくなると。当時の日本現代化を進めた人も皆このように考えた。伊藤博文は当然かかる思想潮流を利用した。」(中国語字幕version)

(以上,中篇。32分38秒)